おはようございます。もうすぐGWも終わりますね。
もうすでに憂鬱な気持ちになってしまっている方もいるのではないでしょうか。
学生のみなさんは練習試合があって忙しい時期かもしれませんね。
それを引率する先生には頭が上がりません。何度でも言いますが学校の先生はよくやっています。待遇をなんとかしてあげてください。我らが休んでいる間にほぼボランティアで引率してくれるのは大人になった今だから分かりますが甘えすぎです。
ということで本日も教育関係のテーマで記事を一本。
「長崎高等商業学校」について解説。長崎大学経済学部の前身です。
鎖国時代異文化の中心となった長崎。
経済的な面でも当然海外の人たちがやってくるわけですからビジネスチャンスも多かったはずです。
この長崎高等商業専門学校の歴史を見ているともうこの時代から政治的な駆け引きがあったというのが分かります。大きなお金が動くところにはそういう駆け引きが生まれるというのは現代も一緒です。
さて標題の4番目なのか3番目なのかということについてですが、知ると山口高等商業専門学校とバチバチやっていたみたいです。
長崎高等商業学校は、1905年(明治37年)3月、勅令第96号により東京の第一高等商業学校(東京高商[1])、神戸の第二高等商業学校(神戸高商[2])に次ぐ、全国で3番目の官立高等商業学校として官制公布され、設立された
(なお、設置自体は山口高商に次ぐ4番目であるにもかかわらず「官立第三高商」を自称している経緯については後出「「第三高商」としての長崎高商」を参照のこと)。
ウィキペディアもなんか歯切れが悪いですね・・・
もっと詳しく見ていきましょうか
長崎高商は公式の校史などではしばしば「(官立)第三高商」とされているがそれは以下のような事情に基づくものである。すなわち、山口高商は明治38年(1905年)2月24日勅令第40号に基づき山口高等学校(旧山高)から転換された一方、長崎高商は同年3月28日勅令第96号により開設され同年9月に授業を開始した。このため法的設置順、開校順とも山口が長崎に先行していたが、同勅令第96号(改正文部省直轄諸学校官制)中の記載順序が、山口高商が高等学校からの改称であったため第七高等学校造士館の次位のままとなっていたのに対し、長崎高商は新設であったことから東京高商・神戸高商の次位とされていた
うーん何か闇を感じますね。実質的には4番目なのが事実なのでしょうが、長崎側としては3番目にこだわっているのでしょう。メダルも3位と4位じゃ天地の差ですから気持ちもわからないでもないですが・・
少し長くなりましたが長崎高等商業学校についての記事でした。
人間の歴史で順番にこだわってしまうというのは教訓ですね!
3番か4番かに関わらず当時高等商業学校に通うというのはエリート中のエリートなのですからそんなに気になるか?思わないでもない私でございます。
人間というのは難しい まあヒナギクの順位で自分がバチバチやるのと一緒ですかね!